お遊戯の練習中、ある先生が「ちゃんとやらないとサンタさん来ないよ」と言ったとき、私はとっさに目を伏せた。
子どもたちは一瞬シーンとして、それからあわてて列に戻った。効果はある。たしかに、その場はうまくいく。
でも私の胸の奥は、ずっとざわざわしていた。
こういうとき、私はいつも自分に言い聞かせる。気にしすぎ。みんなやっていること。私が神経質なだけ。そうやって、ざわつきにふたをして、また保育室に戻っていく。
棚から出したおもちゃだけで遊ばせる日がある。今日はこれ、と決められた箱が並んでいて、子どもはその中から選ぶ。床に寝そべって自分の世界に入っている子を、列に戻す。読み聞かせのすぐ横で、大人が平気で物を動かす音を立てる。子どもより、大人の都合のほうが先に立っている瞬間が、たしかにある。
そのたびに、ふっと頭をよぎる。これがもし自分の子だったら、私はこの関わりを、嬉しいと思うだろうか。
思えない、と感じてしまう。
そう感じてしまう自分が、いちばん厄介だ。だって私は、その園で働かせてもらっている。給料をもらって、同じ釜の飯を食べて、明日もその先生たちと一緒に子どもを見る。なのに心のどこかで「私だったらこうしない」と思っている。その傲慢さみたいなものが、自分でも嫌になる。
主任なんだから、と思う人もいるかもしれない。立場があるなら言えばいいじゃない、と。
でも、現場はそんなに単純じゃない。長くそのやり方でやってきた人たちがいて、それで子どもたちは大きくなってきた実績があって、私が来てから急に「それはどうなんでしょう」なんて、簡単には言えない。言えば角が立つ。空気が悪くなる。明日からの保育が、もっとやりにくくなる。だから飲み込む。飲み込んで、自分を「気にしすぎ」ということにして、その日を終える。
たぶん私は、欲張りなんだと思う。あれもこれも気になって、ぜんぶ良くしたくて。でも全部に文句を言っていたら、ただの面倒な人になってしまう。だから選ぶ。どれを飲み込んで、どれを見ないことにするか。毎日、心の中で取捨選択している。
そういう自分が、保育者として正しいのかどうか、いまだにわからない。
ただ、ひとつだけ思うことがある。「これでいいのかな」と立ち止まれる自分のことを、私はそんなに嫌いになりたくない。違和感を覚えなくなったら、それはそれで、なにかを失っている気がするから。
気にしすぎ、なのかもしれない。
でも、もし同じように胸の奥がざわつく日を過ごしている人がいたら。あなたが神経質なわけでも、わがままなわけでもないと思う。少なくとも私は、今日もそのざわつきを抱えたまま、保育室に立っている。