娘をお風呂に入れて、髪を乾かして、やっと座れたと思った夜の九時すぎ。テレビをつけたまま、私は手元のスマホで連絡帳のアプリを開いていました。

べつに、開けと言われたわけじゃないんです。明日でいい仕事です。それどころか、今日の分はちゃんと園で終わらせてきた。定時で帰ってきた。なのに指は勝手に動いて、明日の子の名前を見て、ああこの子の保護者にひとこと添えておこうかな、なんて考えはじめている。

気づいたら、画面の中の私はまだ職場にいました。

むかしは、こうじゃなかった気がします。記録もおたよりも、園を出たらそこに置いてくるしかなかった。物理的に、書類が職場にあったから。家に持って帰れないものは、家では考えようがなかった。あれはあれで大変だったけれど、玄関のドアを閉めた瞬間に、仕事もそこで閉まってくれていたんだと思います。

いまは、ドアを閉めても閉まらない。

アプリは本当に便利です。これは皮肉じゃなくて、本心です。手書きで何枚も書いていたころを知っているから、ありがたさもわかる。でも便利って、こういうことだったっけ、とふと思うんです。いつでもどこでも開けるということは、いつでもどこでも仕事ができてしまうということで。できてしまうと、つい、やってしまう。

そして厄介なのは、それを誰にも止められないことです。

残業していたら、誰かが「もう帰りなさい」と言ってくれた。電気を消す人がいた。でも家のソファで開いているこれは、残業の顔をしていません。私が勝手にやっていることで、誰にも見えていない。だから、自分でも「これは仕事だ」と思えていないんです。仕事じゃないことにして、仕事をしている。

主任という立場で、私は若い子たちには言うんです。勤務の時間の中で終わらせてね、おうちでは休んでねって。心からそう思って言っています。なのに自分は、ソファでアプリを開いている。言っていることとやっていることが、ぜんぜん違う。それがいちばん、情けない。

たぶん私は、終わらせ方を見失っているんだと思います。むかしは園のドアが終わらせてくれた。いまは、自分で終わらせるしかない。でもその線を、どこに引いたらいいのか、まだ自分でもよくわかっていません。

これをたまたま読んでいるあなたも、もしかしたら今、湯あがりの髪を乾かしながら、片手でアプリを開いていたりしませんか。明日でいい仕事を、なんとなくの気持ちで。

解決の仕方は、私もまだ持っていないんです。ただ、こうして書いてみて思ったのは、あの夜の私はべつに真面目すぎたわけでも、要領が悪かったわけでもなかったのかもしれない、ということ。ドアが閉まらなくなった世界で、閉め方を知らないだけ。それはきっと、私だけの話じゃない。

今夜は、髪を乾かしたら、スマホを別の部屋に置いてみようかなと思っています。うまくいくかはわかりません。でも、誰かも同じことを考えているんだとしたら、それだけで少し、画面を閉じやすくなる気がするんです。